夢を抱くのは自由である。だが、その夢が「太平洋を泳いでアメリカに渡ること」だった場合、自由の範囲にも限界があることをそろそろ認めたほうがいい。海を見て「向こう岸に行けそうだ」と思った瞬間から、人類の理性は波にさらわれてしまったのかもしれない。
この現代において、飛行機も船もあるなかで、なぜわざわざ泳ぐのか。無謀とロマンは紙一重と言うが、太平洋を相手にするとなると、その紙もすぐにびしょ濡れになる。
本記事では、そんな常識外れな発想を、あえて真面目に、しかし容赦なく解剖していく。もしこの記事を読んだあとも、泳ぐ気が失せなかったなら──それはもう、別の意味で海より深刻な問題かもしれない。
距離感という概念を置き去りにした発想
太平洋の広さを、どれほどの人が正しくイメージできているだろうか。地図上では意外とコンパクトに見えるが、それは地球儀という球体を平面に押しつぶしたトリックにすぎない。実際の太平洋は、端から端まで約1万9,000kmに及ぶ。これは東京からロサンゼルスまでの直線距離ですら約8,800km、つまり富士山2,600個分を横並びにしたようなスケールだ。
そして肝心なのは、この距離を「泳いで」越えるという発想だ。徒歩でもなく、ボートでもなく、筋肉と肺だけで制覇しようというのだから、もはや現実逃避に近い。仮に時速3kmのゆっくりペースで泳ぎ続けたとして、単純計算で約3,000時間。つまり125日、24時間無休で泳ぎ続けなければならない。睡眠も食事もトイレも、すべて海の上で解決するという、まさに人間サバイバル版・海上長期出張だ。
途中で島を経由して……という意見もあるかもしれない。しかし、島々の距離感もまた非常に「気軽」ではない。例えば日本からハワイまでですら、約6,500km。道の駅どころか、コンビニすら存在しない、ひたすら青と塩に包まれた世界である。
つまり、「太平洋を泳いで渡る」という構想は、距離という物理法則すら越える無敵の妄想なのである。ロマンを語るには十分だが、実行を語るには、まず地図と現実を開いていただきたい。
生身の身体で挑むには、何が足りないのか
人間の身体は、驚くほど脆い。たしかに水に浮かぶことはできるし、泳ぐこともできる。しかしそれはあくまで、プールや海水浴場という「人間にやさしい環境」においての話だ。太平洋という過酷な舞台に放り込まれた瞬間、人体のスペックは無慈悲なまでに足りないことを痛感することになる。
まず前提として、持久力の問題がある。たとえオリンピック級のスイマーであっても、数時間以上泳ぎ続けることは限界に近い。だが、太平洋を渡るには数ヶ月単位の水中生活が求められる。疲労は蓄積し、筋肉は悲鳴を上げ、ついには意思よりも先に体が「もうムリ」とギブアップする。
さらに、栄養と水分の補給。1日に必要なカロリーは、泳ぎ続ければ優に1万kcalを超える。どこにそんな食料を積むのか? いや、そもそもどうやって持ち運ぶのか? 水分に至っては、周囲にあるのはすべて塩水。飲めば死ぬ。海に囲まれながら脱水症状に陥るという、皮肉きわまりないサバイバルが展開される。
そして、低体温症。水温は場所にもよるが、多くの海域で20度前後。泳いでいれば暖かい? 残念、体温はじわじわ奪われ、気づけば意識が遠のく。しかも夜間はさらに水温が下がる。つまり、眠ると凍える。眠らなければ意識が壊れる。どちらを選んでも、結末は似たり寄ったりだ。
これらに加えて、サメ、クラゲ、日焼け、嵐、そして精神的ストレス。海はテーマパークではない。大自然の理不尽を、四六時中まともに受ける舞台である。そこへ丸腰で挑むのは、命知らずというより、命に興味がない人間のすることだ。
前例はある? いや、聞かないでくれ
「過去に誰かやった人、いるんじゃないの?」という淡い期待。それが人類の希望を支えている──のかもしれないが、残念ながらこの件に関しては、その希望すら波にさらわれている。
たしかに「大西洋を泳いで渡った」という偉業を達成した人物は存在する。例えばフランス人スイマー、ブノワ・ルコンテ氏は1998年、大西洋を一部泳いで横断した。しかしここで注意したいのは、そのすべてが「泳ぎっぱなし」ではなく、支援ボートの随行あり、睡眠も休憩も陸の代わりに船上で確保という条件下での挑戦であったことだ。つまり「人力泳法の旅」というより、「人間が水に入った回数が多い航海」とでも言うべきものだった。
では太平洋は?これまで「太平洋横断スイム」に挑んだ人物も存在はするが、そのほとんどは補助艇つき、GPS管理の上での区間制スイムといった、もはや競技とも呼べる工夫の集合体であって、「生身で全部泳ぎきった」という記録は存在しない。挑戦者はいても、完遂者はまだ現れていない。それが現実である。
なにより、そうしたスイマーたちの記録をたどると、準備に数年、サポートスタッフに数十名、費用に数千万円と、もはや一人の「夢」では済まされないプロジェクトであることがわかる。もはやこれは「泳ぐ」というより、「企画の一環として泳ぐパフォーマンス」だ。
つまり、前例がないというより、本気で全部泳いだ前例など聞いたこともないというのが正確なところである。そしてもし、いまこの瞬間もそれを企んでいる人がいるとしたら、まず最初に呼ぶべきは救急車ではなく、精神科医かもしれない。
「泳いで渡る」は比喩ですらない可能性
言葉には比喩という便利な逃げ道がある。「死ぬほど忙しい」「胃がキリキリするような展開」など、実際には死なないし胃も無傷で済む。だが「太平洋を泳いでアメリカに渡る」は、その比喩ですら成立していない。あまりに非現実的すぎて、もはや比喩表現としての汎用性すらないのだ。
本来、比喩とはある程度の現実感があってこそ意味をなす。だがこの場合、その距離も条件も人間の許容量をはるかに超えており、例え話に使っても相手が「え、何の話?」と首をかしげるレベルである。つまり、発想自体が比喩以下の浮世離れをしている。
とはいえ、グローバル化の波に乗って、「国境なんて心の壁だ」「自由な発想が世界を変える」といった、耳ざわりのいい理想論も巷には溢れている。その延長線上で「泳いで国を越える」などという話が出てきたとしても、ある種の精神的シンボルとして解釈する余地はあるかもしれない。
だが、問題はそれを本気で実行に移そうとする人間がいるという現実だ。現代社会はインターネットの普及により、あらゆる情報が「やれる気がしてくる」演出に満ちている。自己啓発、冒険譚、モチベーション動画……そうした映像の洪水のなかで、「自分にもできるかもしれない」という危険な自信が芽生える。
結果、泳いで渡るという言葉は、もはや現実でも比喩でもなく、無根拠な万能感の象徴になってしまった。地図も見ず、潮流も知らず、ただ「行けそうな気がする」だけで海に飛び込む人間がいたら、それはもはや勇者ではなく、時代錯誤の浪漫主義者である。
もしも本気で試みるなら(絶対に勧めない)
ここまで読んでもなお、「いや、自分なら何とかなるかも」と思っているあなた。まずはその自信の出どころを問いただしたい。そして次に、現実という冷たい海水を頭からかぶっていただこう。
まず訓練。泳ぎの技術は当然として、持久力、耐寒性、精神的な強靭さを鍛え抜く必要がある。数年単位でのトレーニングは必須だろう。そしてそのあいだに、なぜ自分は太平洋を泳ごうとしているのかという根本的な問いに向き合う時間も、自然と確保されるはずである。
食料と水の問題もある。1日に必要なカロリーは1万kcal以上、水は5リットル以上。それを何ヶ月も運ぶには、もはや「背中に冷蔵庫を背負う」レベルの装備が必要だ。が、当然それでは泳げない。じゃあどうするか?支援艇?それはもう「泳いでいる」とは言えないのでは?
さらに、衣類。耐水・耐寒・UVカット、さらにクラゲ防御まで備えたウェットスーツが必要だ。が、それでも24時間海中生活に耐えうる設計ではない。衣類メーカーの想定使用時間は、せいぜい数時間。想定外の使い方をされる側の気持ちにもなってほしい。
保険にも問題がある。海外旅行保険では「太平洋横断泳」などという用途は想定されていない。救助費用、遺体回収費用、死亡時の賠償リスク──どれも自己責任だ。そもそも契約を引き受けてくれる保険会社があれば、逆に取材したい。
結論として、もしも本気で太平洋を泳いで渡るつもりなら、あなたに必要なのは筋肉ではない。理性と制止してくれる友人、そして何よりも目的地に着く手段としての飛行機代である。
まとめ:不可能ではない。ただし、空想世界に限る
「太平洋を泳いでアメリカに渡る」
この一文が意味するのは、可能性ではなく想像力の自由度である。確かに、不可能とは言い切れない。人類はかつて、空も飛び、宇宙にも行った。ならば海を泳ぎきることも、理論上はゼロではない……というのは、あくまで紙の上の話である。
現実は厳しい。距離、環境、生理的限界、そして物理法則。どれを取っても人間の身体はこの挑戦に向いていない。それでもやるというなら、それはもうスポーツではなく信仰の領域だ。命を担保に夢を見るスタイルは、ロマンチストの最終形態か、ただの無謀な愚か者か。
だが、それでもこうした突拍子もない発想が、どこか魅力的に響くのも事実である。なぜなら人間は、不可能にこそ心を惹かれる生き物だからだ。そしてその衝動が、時に世界を動かしてきたのもまた真実である。
ただし、だからといって太平洋を泳ぐ必要はない。夢を見るのはいい。だが、夢を現実にする手段は選ぶべきだ。アメリカへ行きたいなら、飛行機を使おう。パスポートと航空券があれば、10時間で済む話である。筋肉と幻想で挑む必要はどこにもない。
最後にひとこと。泳ぐな、飛べ。